新興宗教との向き合い方。向き合った話 1

2021年3月8日

物心ついた時から、宗教をしてました。
浄土真宗や曹洞宗という、世間一般的な宗教ではなく
新興宗教に関わってました。
というのも、母親が新興宗教の信者であり、その子供でした。

前提として、特定の宗教に勧誘するつもりも、宗教団体を批判
するつもりもありません。ただ、新興宗教というものが家庭に入ったら
どうだった?かを書こうと思います。

・カトリック系の幼稚園に通ったこと

その幼稚園の庭には、マリア様の像があり、教会にはイエス様の像がありました。
毎朝、イエス様の像の前で手を合わせ、日々のお祈りをしました。
幼少期から、人への感謝や敬意、他者への愛情などを教わったのは
今でも価値観の源流にあると思います。
その当時、言語化できるほど、何をやってるかは解っていなかったと思うのですが
悪い言い方をすれば、強制的にやらされたというか、矯正的、又は儀礼的にやってた
ことが、人格形成のひとつになったことは間違いないと思います。

他の幼稚園がどのような感じかは解りませんが、先生がとても優しかったのは覚えています。

運動会で、かけっこに負けた僕は、靴が悪いとか、卑怯な手をされたとか、そんなことを言って、ダダをこねました。
それに対して先生は「頑張って走ったね。すごいね」という感じのことを
何度も、何度も、僕に諭してくれました。
当時の僕は、ぐずったまま、終わったように思います。
今にして思うのは、先生は相手を責めるでもなく、負けた僕自身をつまらない、というのでもありませんでした。先生の意図は何だったのかと考えると
勝負に勝とうが負けようがそのままを受け入れなさい、ということなのかな?と思います。

この世界に生きてる限り、人には必ず、優劣がつきます。それは職業であったり
容姿であったり、収入であったり、家柄であったり、キリがないほど、人の優劣をつける項目があります。

しかし、「人は全て等しく主の子である」とするキリスト教的な考えの前では優劣など存在しません。

解っていても、人と比べてどうなのか?と考えてしまう、自分自身が居ます。

何歳になっても、当時の教えが解るようになっても、自分を変えきれないぐらいが
人間らしいな。。。って思います。